アメリカ覇権国家への歴史

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アメリカの始まり

 フランスを始めとするヨーロッパ諸国の支援を受けながら、イギリスからの独立を果たしたアメリカは、王や貴族の存在しない初の共和制国家となった。建国当初は東海岸13州と、独立時にイギリスから割譲したミシシッピ川以東のルイジアナからなる脆弱な連合国であったが、徐々にアメリカ大陸での領土を広めた。まず1803年にフランスのナポレオンからミシシッピ川以西のルイジアナを買収し、1819年にスペインからフロリダを買収、1845年には、白人が多く住んでいたテキサスがメキシコから独立し、アメリカにより併合された。その直後の1848年にアメリカ・メキシコ戦争で勝利し、現在のカルフォルニアが割譲された。そして1867年にロシアからアラスカを買収したことで、アメリカ合衆国はほぼ現代の形となった。

 アメリカ大陸での領土を拡大したアメリカは、先住民から土地を奪い、アフリカ大陸から率いた大量の黒人奴隷をプランテーションと呼ばれる大規模農園で働かせ、タバコ、綿花、砂糖などを生産した。ヨーロッパからは新しい生活を求めて多くの移民が渡り、西部へと開拓を進めた。特に1849年頃にはカリフォルニアで金鉱が見つかったことにより、一攫千金を目指した大量の移民が西部へと移り住んだ。開拓が進み、次々と新しい州が生まれる中で、アメリカ北部と南部で奴隷制を廃止するか否かが議論となった。工業を主な産業とする北部と異なり、農業を主な産業とする南部では、黒人奴隷が主な労働力となっていたため、南部に住む人々にとって奴隷は不可欠だった。結果的にこの対立がアメリカ史上最も大きな被害をだすことになる南北戦争へと発展した。リンカン大統領率いる北部が勝利し、奴隷制は廃止されたが、南北間の政治的な考えの違いによる分断は現在まで存続する。

 

孤立主義を放棄して帝国主義

 南北戦争を終え、産業革命を経験したアメリカは急激な経済成長を遂げた。また1890年頃には西部開拓が完了し、アメリカ国内でもヨーロッパ諸国の様に、海外へと領土を拡大する動きが見られ始めた。しかしアメリカは1820年代に、ヨーロッパによる南アメリカ諸国への介入を強める動きがあったため、ヨーロッパとアメリカ大陸間の相互不干渉を約束するモンロー教書を1823年に表明していた。そのためアメリカは非常に孤立主義的で、ヨーロッパにおける外交と関わることはなかった。 

 そんなアメリカが帝国主義段階に入る直接的なきっかけとなったのは、1898年に当時のマッキンリー大統領によるアメリカ・スペイン戦争(米西戦争)で勝利し、スペイン領であったプエトリコ、フィリピン、グアムを獲得したことから始まった。その後アメリカは、ハワイやサモアの一部を併合し、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河の管理権を手にした。ルーズベルト大統領の時代には、カリブ海諸国の内政に介入し、カリブ海政策を積極的に行なったことでカリブ海周辺は実質的にアメリカの支配下に置かれた。またアジアにおいても、中国への進出に出遅れたアメリカは、通商権や関税などを平等にし、中国が全ての国に対して同等に開放されるべきであるとする「門戸開放」を主張し、他の列強による中国進出を抑えながら自らも積極的に進出していった。

 世界中で欧州列強が植民地政策を進める中、フランスとの植民地戦争に勝利したことで覇権国家に登りつめたイギリスと、統一されて間もない新興国のドイツの対立が深まり、バルカン問題と重なったことで世界対戦へと突入した。アメリカのウィルソン大統領は当初中立を保ち、戦争への介入を拒んだ。しかし1917年にアメリカ人を乗せた旅客船がドイツ軍により沈没されたことで参戦した。実際の理由としては、泥沼化する戦争で両側が共倒れになり、どちらからも借金が返されないことを恐れたからであると言われている。

 

ヨーロッパが衰退したことで1人勝ち

 アメリカの支援によりイギリス率いる協商側の勝利に終わったが、長期化した大戦により列強諸国は大きな被害を受けた。それとは反対に、アメリカは日本と並んでこの大戦による大した損害を受けなかった国の一つであった。ヨーロッパ諸国に対する債権国となったアメリカは、世界一の経済大国となった。また戦後ウィルソン大統領が掲げた14カ条の平和原則をもとに設立した国際連盟は、アメリカが覇権国家として政治的にも国際社会をリードしていく象徴の様にも思えた。

 ところが、共和党を中心に根強かったアメリカの孤立主義を支持する勢力がアメリカの国際連盟への加入に反対し、結果的に19世紀前半で行われていたような孤立主義に再び戻ることとなった。またこの同時期はアメリカが急激に保守的になった時期でもあった。一切の飲酒を禁止する禁酒法や、排日移民法を始めとするアジア系移民の排斥、また黒人に対する人種差別が激化し、白人至上主義団体のクー・クラックス・クランが再興した。

 一方で、第一次大戦後の10数年間はアメリカの黄金期といわれる、経済的にも文化的にも目まぐるしい成長を経験した時期となった。フォード社によるベルトコンベア式の生産方法で大量に生産されたT型フォードは、一般庶民も自動車を購入できる程の値段で販売され、ここから現代の大量生産、大量消費社会が始まった。

 しかし、前例のない経済成長を遂げたアメリカであったが、1929年の株価大暴落し、次々と企業が倒産したことで失業率が25%以上まで上がったと言われている。不景気は世界各国へと拡大していき、世界恐慌となった。その後のファシスト政権の台頭は、まさにこのような社会状況の中で人々の不安や不満が蓄積していった結果であると言える。そのような独裁政権に率いられたドイツ、日本、イタリアの枢軸国に対して、民主主義による対ファシズムを掲げたイギリス、アメリカ、ロシア、フランスとの大戦が始まった。

 

第二次世界大戦の勝利、覇権国家としてのアメリ

 開戦当初はドイツが次々とヨーロッパ諸国を支配していき、ダンケルクの戦いではイギリスに勝利した。しかしアメリカ参戦後、ドイツの勢いは徐々に終息していき、1945年5月に降伏した。太平洋においては、真珠湾攻撃後、戦況を有利に進めた日本であったが、ミッドウェイ海戦を契機にアメリカの技術力と生産力に圧倒され、1945年の8月に終戦を迎えた。

 第二次世界大戦で連合国側を勝利に導いたアメリカは、他の連合国とは異なり国内の被害がなく、またイギリスやフランスに対する軍事支援により唯一の第二次世界大戦で経済的な損害を負わなかった国であった。そんなアメリカは、イギリスに代わる覇権国家として国際連合IMF世界銀行などの国際機関を設け、さらには米ドルを基軸通貨とするブレトン・ウッズ体制という新たな経済体制を作った。第一次大戦後とは異なり、完全に覇権国家としての地位を確立していったアメリカは、次第にソ連を中心とした共産主義圏との対立が加熱した。

 第二次世界大戦中は、同じ連合国として協力した米ソであったが、戦後は共産主義を掲げるソ連アメリカの自由民主主義と資本主義への脅威となり始めた。ヨーロッパも西の資本主義圏と東の共産主義圏に分裂し、世界はこの二つの陣営が対立するという構図になった。

 米ソの対立は直接的な戦争にはならなかったものの、二つの大国の対立は世界をかつてない程の緊張状態に陥れた。アメリカは、ソ連の影響力がヨーロッパで拡大し続けないために、マーシャルプランによる西ヨーロッパ諸国への経済的支援や、東の共産主義圏に対して軍事的、経済的に封じ込めを行った。またソ連による軍事侵攻を防ぐために、アメリカや西ヨーロッパ諸国がNATOと呼ばれる軍事同盟をつくった。その後、アメリカは冷戦終結の1989年まで朝鮮半島アフガニスタンベトナムニカラグアなど多数の国々の内政に干渉することで、共産主義勢力の拡大を食い止めることに専念した。西側陣営の宗主として、他の国とは比較にならない程の協力な軍を構築した。

 

ソ連の崩壊、そして新たな大国の台頭

 1991年にソ連が崩壊したことにより、アメリカは世界唯一の覇権国家として圧倒的な国力を誇示した。絶対的な覇権国家になったことにより、自由民主主義と資本主義を世界に広め、世界に繁栄と秩序をもたらすことができると考えた。そのためにはイラクフセイン政権や、アフガニスタンタリバンのような勢力を撃退し、アメリカの考える世界秩序を守ることが第一の目標となった。冷戦終結後30年近く経つが、NATOは解散することなく、むしろ拡大し、アメリカ国外の米軍基地の数は500を超える。こうして冷戦後も世界中に影響力を持ち続けてきたアメリカであるが、トランプ大統領就任以来、国際社会での立場が変わってきている。トランプの自国第一主義的な立場は、19世紀の前半や第一次世界大戦後の孤立主義に逆戻りしている様にも思える。中国が台頭しているなか、今後アメリカがどのような立場をとっていくのだろうが。

 

中東の冷戦 サウジvsイラン

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中東の紛争は大国サウジアラビアとイランの代理戦争である

 中東情勢は大きな構図で見ると冷戦状態にあると言える。君主により半ば独裁的に政治が行われているサウジアラビアと、1978年のホメイニによる革命以来イスラム原理主義者的な政府によって統治されているイランとの覇権争いである。21世記になって以来中東での紛争には、ほとんどこの二国が何かしろの形で関わっている。まず前提として両国はもちろんイスラム教の国であるが、宗派が異なる。イスラム教は大きく分けて、多数派のスンニ派と少数派シーア派に分かれており、サウジアラビアスンニ派でイランがシーア派である。スンニ派シーア派は、キリスト教カトリックプロテスタントとは違って歴史的にみると争いは少なかった。しかし宗派が異なる両国は、中東での覇権を拡大しようと周辺国内にいる同じ宗派の勢力を支援しながら、直接的にではなく、代理戦争という形で争っている。さらに中東での冷戦はこの二つの大国だけではなく、アメリカは世界最大の武器輸出相手であるサウジアラビアを支援しており、ロシアや中国はイランを支援している。

シリアのケース
 中東での内戦としてはシリアの内戦が一番記憶に新しいだろう。2012年頃に独裁政治を行ってきたシリアのアサド大統領と反政府勢力との内戦が勃発してから戦況が急激に激化し、2013年ごろには完全に国際的な代理戦争となった。アサド政権と近い関係にあったイランが政権側を支援したことで勢力拡大を恐れたサウジアラビアは反政府勢力を支援し、シリアに軍港を置いていてアサド政権とも比較的良好な関係にあるロシアが支援を始め、アサド政権を「世界最悪の独裁者の1人」に挙げたアメリカが反政府勢力を支援した。
トランプ政権になってからはアメリカがシリアから撤退したことで、アサド政権側が支配領域を拡大したが軍事衝突は続いている。この内戦により国内では45万人以上の死者と、数百万人に及ぶ大量の難民が国外へ移った。この内戦がシリアだけでなく周辺の国々にも影響をあてたことがわかる。

イエメンのケース
 同様のケースだが、シリアと比べてあまり注目されなかったイエメンの内戦がある。2011年のアラブの春の影響により30年以上独裁政治を行ってきたサーレハ大統領の退陣を求める運動が活発になり、他国からの圧力もあったことで政権は崩壊した。しかし新政府の形成に不満を抱いたサーレハ大統領は軍を率いて、反政府勢力のフーシ派と軍事衝突を繰り返した。フーシ派の多くがシーア派イスラム教徒でるあることからイランの影響力が増加することを懸念したサウジアラビアはサーレハ大統領を支援し、フーシ派の地区への空爆を開始した。空爆は市民が生活する町にも行われたため、1万2000人の一般市民が死亡し、経済封鎖や食料支援が止められたことにより1200万人の人が飢餓に直面した。サウジアラビアへ大量の兵器を輸出しているアメリカ国内では軍事支援に対して反対の声が上がり、国会ではサウジアラビアへの軍事支援を停止する法案が可決したが、トランプ大統領が拒否権を発動したことで支援は続行された。現在では一部停戦状態にあるが未だに内戦は続いており、一般市民の犠牲者が増える一方だ。

 このように中東ではサウジアラビアとイランという大国によって各地で代理戦争が行われており、それに便乗するようにアメリカやロシアなどの大国が関与することで中東国々の内戦は複雑化している。大国同士が直接戦争するのではなく、代理を挟みながら覇権争いを行うことで正面衝突を避けているのだが、米中の関係が悪化していく中、今後このような代理戦争が中東に関わらず世界各国で増えていくかもしれない。

イラク戦争の失敗

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 1990年にサダム・フセイン政権のイラククウェート侵攻したことを受け、国連安全保障理事会は撤退を求めた。しかしフセインはそれに応じなかったため、国連安保理武力行使容認議決をだし、アメリカを中心にイギリスやフランスなどがイラクへの攻撃を開始した。連合軍に攻撃を受けたイラク軍は100時間ほどで決着をつかれ、クウェートから撤退後もイラクは監視や厳しい経済制裁を受けた。しかし当時のアメリカ大統領ジョージ・HW・ブッシュ(父)はフセイン独裁政権シーア派イスラム教徒やクルド人などに対して残虐な行為を行なっていたことを知りながらも一定の安定を保っていることを知っていたため、アメリカが直接イラクの内政に介入するようなことはしなかった。
 その約10年後大統領に選ばれた息子のジョージ・W・ブッシュは父とは違い、イラクに対して厳しい姿勢を見せ、イラン、イラク北朝鮮悪の枢軸国としてアメリカに対抗する国を容赦なく叩いた。アメリカのような自由民主主義や自由主義経済を全世界が用いれば世界の秩序は保たれるという「ネオ・コンサーヴァティヴィズム(ネオコン=新保守主義)」がブッシュ大統領をはじめとする保守派の政治家のなかで流行していた。そのような思想を持つ保守政治家にとってアメリカの意に反するような政治を行うイラクは都合が悪かった。
 そんな中2001年9月11日の同時多発テロが起こり、これを絶好なチャンスと見たブッシュ政権イラクへ宣戦布告をした。名目としては生物兵器大量破壊兵器を持つサダム政権が国際社会にとって脅威であるとし侵攻を正当化したが、根拠はなく、実際その後の調査によって存在しなかったことが証明された。正当な理由もなく行ったイラク侵攻に対し、国際社会からも多くの批判を浴びた。ブッシュ(父)が行ったイラクへの攻撃の時のように国連安保理から議決を得ることは出来ず、アメリカがイギリスやオーストラリアなどと独自で結成した「有志連合」により侵攻が行われたことで当時の国連事務次官のコフィ・アナン氏はこれを国際法違反とした。
 批判を受けつつもブッシュ政権は1ヶ月ほどで首都のバグダットに突入し、市民とアメリカ軍によってフセイン像は倒され、約30年に及んだ政権が崩壊した。フセイン政権についていた官僚や政治家、またイラク軍40万人は解雇され、暫定政権の下で初の民主主義選挙が行われたことでこのままアメリカが望んでいる自由民主主義の国家へとなっていくようにも思えた。しかしシーア派中心に作られた新政府は、フセイン政権の下についていたスンニ派の官僚やイラク軍の兵士を解雇したことで、シーア派の政権とスンニ派の元政治家や官僚、兵士の間で争いが激化した。さらにスンニ派側に周辺国からのイスラム過激派組織が加わり、2013年頃にはイスラム国が勢力を拡大したことでイラクは完全にイスラム過激派組織の支配下に置かれた。現在はイスラム国もほぼ崩壊し政府の支配力が強まってはいるが、未だに政府とそれに対抗する勢力の争いは止まない。
 2003年にブッシュ大統領がテロ組織撲滅を目的にサダム政権を崩壊させたことで安定を失い、イラクイスラム過激派組織の溜まり場と化した。さらにはシーア派の政権になったことで、イラクスンニ派のサダム政権時には対立していたイランとの関係が良くなり、イランと対立するアメリカは中東での立場が悪化した。ブッシュ大統領によるイラク侵攻は初期段階では成功したものの、目標としていた自由民主主義国を構築する段階では失敗し、安定を失ったイラクアメリカが望んでいたような国家にはならなかった。

批判を強めるトランプーコロナ後の米中関係はどうなるか?

 

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コロナウイルスは2019年の12月頃に中国の武漢で感染が見られてから、3月頃には世界中で流行が始まった。500万人もの感染者をだしているが、感染源である中国は感染がおさまり、経済活動を再開している。これに対して、特に感染者が世界最大となったアメリカでは中国当局の対応の遅さや、協調性のなさに対して批判を強めている。現在中国政府が公表している感染者数はここ一ヶ月程ほとんど増加していないため感染はおさまったようにも思えるが、その数字がどの程度信用できるかどうかも分からない。当初から中国政府の対応は批判されており、実際2019年末に中国武漢の李文亮医師が新型コロナウイルスの発見を自身のSNSで発表をしたにもかかわらず、李医師はその後拘束され、事態が深刻化してから中国政府による対応が始まった。さらにはここ数週間WHOによる中国国内での調査の要請を拒否しており、諸外国と協調していく意向があまり見られない。
 コロナウイルス流行以前から中国に対する批判を強めてきたトランプ大統領であるが、自身のコロナウイルスに対する対応が批判が増加してからは、批判を外部に向けようと中国を罰する考えを示している。その一つとして、アメリカの法律に基づいて中国の主権免除破棄がある。主権免除を破棄することにより、アメリカ政府やアメリカ国内の企業が中国政府を訴えることが許され、中国に対して多額の賠償金を払わせるのが狙いだ。またこれにより、現在中国政府が持つアメリカ政府に対する100兆円に及ぶ借金の一部が免除されることにもなる。しかし借金免除に対してはアメリカ政府内でも疑問視する声が上がっており、実現するかどうかは今後トランプ大統領がそれをどれ程望んでいるかによるだろう。
 トランプ大統領が考える中国に対する「仕返し」として、実行される可能性が一番高いものは、やはり中国製品に対する関税の引き上げだろう。しかしコロナウイルス流行により経済活動が停止され、3000万人に及ぶと言われる失業者を抱えるなか、これは自傷行為のように思える。関税を上げることで中国製品の値段が高くなり、売り上げを下げるのが目的だが、経済的に困窮している多くのアメリカ国民の消費を抑えることにつながり、結果的にアメリカ経済にも影響が及ぶのではないだろうか。さらには昨年から激化していた米中の貿易戦争によりあらゆる分野で関税を引き上げたため、再び関税を上げたところでそこまで効果があるようにも思えない。
 どちらにしろアメリカが中国に対して何かしらの報復措置をとるのは間違いない。トランプ大統領をはじめ、ポンペオ国務長官など強硬路線を進むアメリカ政府の高官が今後どのような行動にでるかにより、今後の国際情勢が大きく左右されそうだ。

5000万人の命を奪ったスペイン風邪とは?

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 今年の1月頃に武漢発祥のコロナウイルスについてニュースで放送された時、2ヶ月後にこれほど世界に大きな影響を与えることになるとは誰も予想しなかっただろう。国境をまたいだ活発な人の往来はウイルスを瞬く間に世界中へ広めパンデミックを引き起こし、メディアで連日コロナウイルスに関する情報が飛び交う。そんな中100年前に発生したパンデミックについて耳することがあるかもしれない。歴史上度々伝染病の大流行があったが1918年―1919年にかけて世界中で大流行したスペイン風邪は、進展していたグローバル化によってこれまでの伝染病とは比にならないほど世界中に広がった。
 1918年といえば第一次世界大戦の最中で、人の往来が多かったことが感染拡大を加速させた。スペイン風邪という名前からスペインが発祥であると誤解されるが、実際は大戦中に中立国であったスペインのみがこの病気に関してメディアで取り上げていたため、この名前が用いられるようになった。実際には病原菌の発生源は定かではないが、カンザス州内の軍事キャンプが最初のケースであったと言われている。1918年の夏頃にキャンプ内でアメリカ軍の兵士数名が高熱で倒れたが、軍事キャンプ内で軽い病気にかかることは稀ではなかったため、それに対して特に処置をとることもなくキャンプ内にいた兵士は次々と戦地へ送り込まれた。通常の風邪とは異なりキャンプ内にいる兵士が次々と高熱に襲われ、ついにはキャンプ内のほぼ全ての兵士が感染により倒れてしまった。異変に気づいた頃にはもう遅く、キャンプにいた兵士は戦地であるフランスへと大量に運ばれ、感染はフランス内にも広がった。
 ヨーロッパに渡ったウイルスは次々と広まり、大戦に参加していた日本をはじめ義勇軍として多くの兵をだしていたインドなどアジアの国々にも広まった。世界各国で政府はマスク着用を人々義務付け、劇場やサーカスなど人が多く集まる場所を閉鎖した。しかし現代のように感染者の検査手段はなく、また感染者を追跡するのも困難であった。さらに戦時中であったことから兵器を生産する工場を閉鎖することができず、多くの労働者が感染を恐れながら働き続けなければならなかった。
 最終的には世界中で5億人の感染者をだし、少なとも5000万人もの命を奪った人類史上最悪のパンデミックとなった。感染者の中には当時のアメリカ大統領ウィルソン、イギリス首相ロイド・ジョージの他に画家のクリムトは感染により命を落とした。もちろん現在蔓延しているコロナウイルスがこれほどの感染者や犠牲者をだすことはないだろうが、世界中に恐怖を与え全人類に影響を与えた面では同じであろう。
 しかしスペイン風邪の大きな特徴の一つとして死者のほとんどが15歳から40歳と若年層であった。これは死者のほとんどが年配層であるコロナウイルスとは大きな違いである。この理由としてはこの年齢層が19世紀の後半に流行したインフルエンザを経験しておらず、免疫がなかったため感染した場合重体化するケースが多かったと言われている。しかしこれは若年層が減少したことで結果的に労働者の数が減り、賃金の上昇や労働者の待遇が改善したという影響をもたらした。
 もう一つコロナウイルスとは大きく異なる点の一つとして経済に対する影響がある。現在のコロナウイルスでは、感染拡大を防ぐためほとんどの経済活動が停止状態となっており、失業者の増加や経営破綻などに多くの企業が陥っている。流行が消息した後も経済の悪化が懸念される。しかしスペイン風邪が流行した20世紀初頭は現代ほど経済が中央集権化しておらず、流行が終息した後はアメリカの黄金時代といわれる20年代の経済成長のような世界的な経済成長を経験した。また不幸中の幸いとして戦時中であったことから、もともと供給能力が低くかったことによりハイパーインフレーションの様な事態にも陥らなかった。
 現代では経済のグローバル化がすすんだことにより様々な恩恵を受けられているが、複雑化した経済体制であるからこそパンデミックのような災害が起こった場合に受ける損害は非常に大きい。特に中国やアメリカのような大国の経済が停止した途端、その影響が全世界に及ぶということは今回のパンデミックにより痛感した。しかしもちろんグローバル化した世界であるからこそ、医療支援や情報共有など互いに協力しあいながらパンデミックのような災害を乗り越えることができる。今後環境問題が深刻化するなか、パンデミックのように各国が協力して解決に取り組まなければならない問題が増えていくと予想される。今回のパンデミックよりも深刻な事態が訪れた場合、大国同士が手を取り合って助け合うことはできるだろうか。
 

アフガニスタン情勢ー『アメリカ史上最長の戦争』

 

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 アフガニスタンは古くから周辺国により支配され、内陸国であることから人の往来が盛んであったため現在でも多くの民族により形成されている。19世紀には二度にわたる戦争によりイギリスを苦しめたが1880年に保護国化されたが、再び第一世界大戦後独立を勝ち取った。その後は比較的安定した国家として国外からバックパッカーなど観光客も多かった。
 情勢が大きく変化したのは1979年ソ連によるアフガニスタン侵攻である。冷戦期であった当時、ソ連は中東における影響力を確保するためアフガニスタン社会主義政権を支持した。その政権に対抗していたイスラーム勢力をアメリカやパキスタンが支持し、代理戦争と化した内戦は加熱した。イスラーム勢力は社会主義政党によるイスラームの弾圧に対抗するため、ソ連との戦争を「ジハード(聖戦)」としてイスラーム組織ムジャヒディーンを中心にアメリカの支援を受けながら抵抗した。そのイスラーム勢力の中には、後にアルカイダを組織することになるオサマ・ビンラディンもいたことは有名な話だ。
 当初予想していた以上に長期化した戦争によりソ連の経済状況は悪化し、1988年にアフガニスタンから撤退したことで社会主義勢力が敗れた。長年の内戦により周辺国のパキスタンやイランに600万人以上の難民が押し寄せ、そのなかにはもちろん多くの子供達も含まれていた。パキスタンの難民キャンプ内に設けられたイスラーム教徒の学校マドラサイスラーム原理主義的な教育を受けた子供達の多くは、後に祖国奪還を目的とする「タリバン」を組織した。
 パキスタンから支援を受けながらタリバンは急速に台頭し、1990年代の終わりにはアフガニスタンの90%程を支配した。この時期のアフガニスタンタリバンによる非常に厳しい支配により比較的治安が良かったと言われている。ところがアフガニスタンを再度混沌と化すような出来事が発生する。2001年9月11日米国に対する同時多発テロである。この事件の実行に及んだグループは、先のソ連との戦争でアメリカが支援をしていたイスラーム勢力出身のオサマ・ビンラディン率いる「アルカイダ」である。タリバンはこの事件に直接は関与していないものの、テロ実行後アルカイダを保護したことによりアルカイダと並んでアメリカによる攻撃のターゲットとなった。
 アメリカによる激しい攻撃のよって攻撃開始一ヶ月程でタリバンは敗れ、多くのメンバーはパキスタンへ逃れた。その後アフガニスタンではアメリカによる現在まで続く国づくりが開始されることとなる。2001年12月にはドイツで開催された国際会議によって暫定大統領にカルザイ氏が選ばれた。さらに2003年にはアフガニスタン国内で行われた国民大会議においてカルザイ氏が正式に大統領として選ばれ、アフガニスタンでの国家建設は完了したように思われた。しかしアメリカの攻撃を受け弱体化したタリバンは徐々に力をつけていき、遂に2005年ごろから再び新政府との内戦に陥った。
 その後国土のほとんどを支配したタリバンは政府を圧倒し、武力によるタリバン撃退は困難なことであるように思われた。実際この時期のアフガニスタン国民を対象にした調査によると多くの人がタリバンとの和平を望んでおり、政府内にタリバンを組み込むことが必要なのではないかという意見も多く上がった。武力行使からタリバンとの和平交渉に乗り出した政府、並びに国連はPTS(平和強化プログラム)など和平交渉プログラムを試みたが、新政府をアメリカの傀儡と見ていたタリバンは和平交渉に乗る気ではなかった。
 もちろん長引く内戦による犠牲も多く、ここ10年だけで民間死者は10万人以上、家を失い難民となった人の数はパキスタンにいる数だけで150万人以上に登る。一向に和平交渉進展しないように見えていたが、2016年にトランプ大統領が就任して以降事態は急変した。トランプ大統領といえば選挙中からアメリカ第一主義を掲げ、中東をはじめとした国外の情勢にアメリカが関与することを嫌い、それはアフガニスタン情勢に関しても同じであった。
 2018年和平交渉は一気に進展した。トランプ大統領タリバンが望んできたアメリカとの直接的な和平交渉を受け入れた。アメリカの兵士をアフガニスタンから撤退させることを引き換えに、今後タリバンが国際テロ組織を保護しないことで合意された。ところがその合意は直前でアメリカ側により取り消された。同時期にタリバン兵士によるアメリカ兵殺害という事件もあり、このタイミングで和平合意行うことは2020年の大統領選挙に不利な事であると考えたトランプ大統領による判断であった。
 しかしアメリカ政府内からもタリバンとの和平を求める声が多くなったこともあり、2020年2月29日に長年仲介役を買って出てきたカタールの首都ドーハでアメリカとタリバンの和平合意が行われた。
 様々な紆余曲折がありながら18年にも及んだアメリカ史上最長の戦争が終結した。1979年のソ連侵攻から始まった内戦、大国間の代理戦争を経験したアフガニスタンは今後国内の安定が約束されているわけではない。内戦が再燃焼し再び多くの犠牲者と難民を生み出す可能性もそう低くはない。しかし長年争い続けたタリバンを今後の国家建設に取り込みながら、アフガニスタン繁栄へと進みだす必要があると感じた。

 

「キンドルバーガーの罠」について

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米中関係に迫る罠

  20世紀からの覇権国であったアメリカと1970年代後半から始まった鄧小平の改革開放政策によって急激な経済成長を遂げた中国との関係が良好なものとは言えない。特に近年では両国間の貿易戦争によって関係がさらに悪化しているように思える。
そんな中、ニュースやネットの記事などで「トゥキディデスの罠」という用語を耳にしたことがある人は多いだろう。トゥキディデスの罠とは、「急激に成長する新興国と、それを警戒する従来の覇権国家が戦争不可避の状態に陥ること」である。1871年に統一を達成し国力を急激に上げていた新興国ドイツに対して、世界の四分の1を支配していた覇権国家のイギリスが経済や軍事力競争の末、1914年には第1次世界大戦によって両国が激しくぶつかり合うことになったことはトゥキディデスの罠の典型的な例だ。 

しかし米中関係の話題で「キンドルバーガーの罠」という用語を聞いたことある人は少ないだろう。キンドルバーガーの罠とは、「新たに覇権国家になった国が、グローバルな公共財を提供する役割を怠ることで国際的な混乱に陥ってしまうこと」である。例えると、第1次世界大戦によって没落したイギリスに次いで覇権国家となったアメリカが国際秩序の構築を怠り、孤立主義をとってしまったことで、1930年代の大恐慌が起こりそのまま第二次世界大戦へ突入してしまったことである。 
今日の米中関係では、この「罠」を避けることができるだろうか。まずトゥキディデスの罠を考えたい。中国は1978年に始まった改革開放政策によって社会主義の計画経済から、資本主義的な市場経済へと移行した。90年代から急激な経済成長を始め、2010年には日本を抜いて世界二位の経済大国になった。近年ではIT産業を中心に国外にも影響を及ぼし、また習近平によって始まった欧州、アジア、アフリカを経済で結ぶ「一帯一路」構想によってますますアメリカの覇権国家の座を脅かしている。
このような状況は第1次世界大戦前の英独関係に似ており、トゥキディデスの罠があてはまるように思える。しかし当時の英独関係と現在の米中関係は大きく異なる所がある。まず第1次世界大戦前のドイツは、イギリスをすでに経済力では超えており、イギリスの国力は低下していた。対して今の中国のGDPは約12兆ドルで、アメリカの約20兆ドルには遠く及ばず未だアメリカはダントツで世界一の経済大国である。また中国は国内外で多くの問題を抱えている。国内では、新疆ウイグル自治区チベット独立運動が行われ、香港では中国共産党に対する激しいデモ活動が続いている。国外では、南シナ海をめぐって周辺国と対立しており、多くの国と国境を接している中国にとっては常に周辺国との関係が大きな問題になっている。これは接している国境が少なく、他の大国から離れているアメリカとは大きな違いだ。
このように中国は、アメリカの覇権国家の座を奪うためには多くの課題が残っている。そのため第1次世界大戦前の英独関係と違い、トゥキディデスの罠が両国の関係において当てはまるとは今のところ言い難い。このまま対立関係を続けて20世紀初頭のようなことが起こる前に、この緊迫した状況から抜け出す打開策を両国で考え出すことで、トゥキディデスの罠を避けることが出来るのではないだろうか。次にキンドルバーガーの罠はどうだろうか。中国は、先程述べたような経済成長によって、アメリカに続く次の覇権国家であると予想する者が多い。しかし覇権国家とは、国際社会の秩序の維持やグローバル公共財の提供など様々な役割を担わなければならず、それを怠ってしまうと第一次世界大戦直後の国際社会のような状況に陥ってしまう。
中国は急激に国力を伸ばしているためアメリカから警戒されてはいるものの、実際国際秩序を乱しているかと言うと、今の所そうとは言えない。ナチスの様に国際社会をひっくり返そうというわけではなく、むしろ2015年のパリ協定や、同年に行われた米中間で商業目的のサイバースパイ活動を禁止する合意など、国際秩序の維持に貢献しているよう思える。ただ、先に挙げた南シナ海問題の例など、中国がこのままの国際社会を完全に維持するとは断言できない。 

2つの学説を見てきて、どちらの学説もこの両国の関係に当てはまりそうだが、この2つの「罠」を避けることがまだ可能であるとも言える。グローバル化によって全ての国が共通して持つ国際問題が増えた。環境問題などはその1つであり、世界中の国が協力して解決していくしかない。しかし、二酸化炭素排出量世界1位と2位の国が率先して共にこの問題に取り組まなければ問題解決は不可能だ。現在のような対立関係を続けるのではなく、まだ時間があるうちに関係を良好なものにしてもらいたい。