イラク戦争の失敗

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 1990年にサダム・フセイン政権のイラククウェート侵攻したことを受け、国連安全保障理事会は撤退を求めた。しかしフセインはそれに応じなかったため、国連安保理武力行使容認議決をだし、アメリカを中心にイギリスやフランスなどがイラクへの攻撃を開始した。連合軍に攻撃を受けたイラク軍は100時間ほどで決着をつかれ、クウェートから撤退後もイラクは監視や厳しい経済制裁を受けた。しかし当時のアメリカ大統領ジョージ・HW・ブッシュ(父)はフセイン独裁政権シーア派イスラム教徒やクルド人などに対して残虐な行為を行なっていたことを知りながらも一定の安定を保っていることを知っていたため、アメリカが直接イラクの内政に介入するようなことはしなかった。
 その約10年後大統領に選ばれた息子のジョージ・W・ブッシュは父とは違い、イラクに対して厳しい姿勢を見せ、イラン、イラク北朝鮮悪の枢軸国としてアメリカに対抗する国を容赦なく叩いた。アメリカのような自由民主主義や自由主義経済を全世界が用いれば世界の秩序は保たれるという「ネオ・コンサーヴァティヴィズム(ネオコン=新保守主義)」がブッシュ大統領をはじめとする保守派の政治家のなかで流行していた。そのような思想を持つ保守政治家にとってアメリカの意に反するような政治を行うイラクは都合が悪かった。
 そんな中2001年9月11日の同時多発テロが起こり、これを絶好なチャンスと見たブッシュ政権イラクへ宣戦布告をした。名目としては生物兵器大量破壊兵器を持つサダム政権が国際社会にとって脅威であるとし侵攻を正当化したが、根拠はなく、実際その後の調査によって存在しなかったことが証明された。正当な理由もなく行ったイラク侵攻に対し、国際社会からも多くの批判を浴びた。ブッシュ(父)が行ったイラクへの攻撃の時のように国連安保理から議決を得ることは出来ず、アメリカがイギリスやオーストラリアなどと独自で結成した「有志連合」により侵攻が行われたことで当時の国連事務次官のコフィ・アナン氏はこれを国際法違反とした。
 批判を受けつつもブッシュ政権は1ヶ月ほどで首都のバグダットに突入し、市民とアメリカ軍によってフセイン像は倒され、約30年に及んだ政権が崩壊した。フセイン政権についていた官僚や政治家、またイラク軍40万人は解雇され、暫定政権の下で初の民主主義選挙が行われたことでこのままアメリカが望んでいる自由民主主義の国家へとなっていくようにも思えた。しかしシーア派中心に作られた新政府は、フセイン政権の下についていたスンニ派の官僚やイラク軍の兵士を解雇したことで、シーア派の政権とスンニ派の元政治家や官僚、兵士の間で争いが激化した。さらにスンニ派側に周辺国からのイスラム過激派組織が加わり、2013年頃にはイスラム国が勢力を拡大したことでイラクは完全にイスラム過激派組織の支配下に置かれた。現在はイスラム国もほぼ崩壊し政府の支配力が強まってはいるが、未だに政府とそれに対抗する勢力の争いは止まない。
 2003年にブッシュ大統領がテロ組織撲滅を目的にサダム政権を崩壊させたことで安定を失い、イラクイスラム過激派組織の溜まり場と化した。さらにはシーア派の政権になったことで、イラクスンニ派のサダム政権時には対立していたイランとの関係が良くなり、イランと対立するアメリカは中東での立場が悪化した。ブッシュ大統領によるイラク侵攻は初期段階では成功したものの、目標としていた自由民主主義国を構築する段階では失敗し、安定を失ったイラクアメリカが望んでいたような国家にはならなかった。